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けものフレンズは新時代の「人間賛歌」である

 某エントリーに触発されて

 かつて、宮崎駿がどれだけの困難に直面したとしても生きることを肯定し、その素晴らしさを説いた。荒木飛呂彦は困難を恐怖として具体化し、それと立ち向かう人物の生き様を描いた。押井守は変化の乏しい永久の日常の苦痛を認めながらも、生きることの美しさを表現した。
 多くの「古典」でも題材とされたこの「人間賛歌」を、他者と自らへの承認という形で切り出したのが「けものフレンズ」である。

 国内外の情勢は混迷を極め、今や理解できることの方が少ないのではないか、という世相である。そのような中で、生活者はどこか切迫した日々を過ごしている。果たして一体どれだけの人が、他者の存在を認め、弱者への慈しみを持つことが出来ようか。
 お題目はみな、共有しているはずなのに、私は救われない。隣の弱者は救われる。いつまでたっても隣家の芝生は青い。そんな気持ちを心のどこかで抱えている。
 抑も、他者の存在を認めることも、弱者への慈しみを持つことも、矢印が逆なのだ。これらの価値観が広く共有されているのは、自らが認められること、弱者である自分が救われることが嬉しい、という価値観を多くの人が持っていたからだ。いつしか人々はそんなことも忘れ、ただ一方的に被害者意識を肥え太らせてしまった。

 サーバルちゃんの行動には一片の迷いも無い。自分にはできることを、かばんちゃんができなくともそれを責めたりしない。例え、それが共通の目的である旅程に影響する類いのものであったとしてもだ。むしろ、行く先々で出会うフレンズに強く関心を持ち、彼女らの悩みを解決するための努力を惜しまない。
 「けものフレンズ」は我々に思いださせてくれるのである。自分という存在が他者に認められることの快感と、他者のために全力を尽くすという快感を。今こそ、フレンズの振りを見て、我が振りを見直す時である。こんな鼻先にぶら下げられたニンジンに噛みつかぬは愚か者の行いである。

 もう、誰かと比べて被害者になるのを辞めようではないか。そんな思考回路で果たして幸せになれようか。限られたリソースを奪い合うのではなく、自らにあるリソースを他者に分け与えよう。自分にできることを何でもしよう。
 確かに、フレンズたちが今日の食事や住むところに困ることはない。我々とのその違いは確かに小さなものではない。しかし、それでも私は願ってしまうのだ。いつかフィクションが現実となるように、自他の違いを肯定し、困っている者に迷わず救いの手を差し伸べられる、人間賛歌に満ち溢れた、そんな日が訪れることを。


 最後になってしまったが、私は十数年来のケモナーである。